ワイングラスの名門ブランド - RIEDEL(リーデル)
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歴史

265年以上続く歴史とは?

  1. リーデル一族について
  2. ガラスへの情熱
  3. リーデル社の歴史
  4. 歴代当主

北ボヘミアの町ポーラオンにあった煙突付きのリーデルのガラス工場

リーデル一族について

リーデル家の物語は1756年ボヘミアで始まり、途中でヨーロッパの歴史における劇的な大事件に巻き込まれながら、統合を果たした現在のヨーロッパまで続きます。
リーデル家は300年間ガラス作りにたずさわり、11代にわたる家族経営を守り続けています。
リーデル家の物語は1678年、シレジア(現在のポーランド)と国境を接するボヘミア(現在のチェコ共和国)北部の町から始まります。ここはボヘミアでもドイツ語を話す地域にあたり、ズデーテンランドと呼ばれていました。
紀元1,000年頃、ヴェネチアの人々が中近東からガラス造りの技術を持ち帰りました。ガラス溶解に必要なエネルギー源を求め、ガラス製造の知識はヨーロッパ北部へゆっくりと広がっていきました。エネルギー源として木材が使われ、ガラス職人は森林地帯に移住することになります。このときの森林地帯への移住により、17世紀にボヘミアでガラス文化が発展します。

クラウス・リーデル

ガラスへの情熱

伝統と革新。リーデル社は誇りをもって、その250年にわたる成功の歴史を振り返ることができる。
北ボヘミアにいた初期の頃から今日に至るまで、11代にわたって、ガラスを作ることで優れた芸術を生み出してきたのである。
1673年、ヨハン・クリストフ・リーデルは、ボヘミアのノイシュロスで生まれた。このことは、また、世界で成功を収める企業の一つが誕生したことでもあると、誰が想像できただろう。
このボヘミアのガラス商人が、今日の社の代表であるゲオルグ・リーデルと息子のマキシミリアン・リーデルに至るまで、何世代も続く直径の起源なのだ。この長いつながりの中で、各世代の一人一人が、個人的才能を発揮し、先見の明をもって、会社を成功へと導き、今日のリーデルの繁栄を実現させたのである。

リーデル社の歴史

初代リーデルの悲劇

リーデル家とガラスとの関わりは、“Ur Riedel”、すなわちリーデルの父祖と呼ばれる、初代のヨハン・クリストフ・リーデルの時代にまでさかのぼることができます。
1723年、ガラス商との商談を終えて帰宅途中だったヨハン・クリストフ・リーデルは、彼が大金を持っていると思いこんだ二人の男によって殺害されます。ヨハン・クリストフの逸話は有名になり、ボヘミア地方全域で代々語り継がれるようになりました。
フリードリヒ・シラーが1895年に発表した『イビュクスの鶴』には、ヨハン・クリストフ・リーデルが殺された状況がそのまま描かれており、この痛ましい事件が偉大なる作家の想像力をかきたてたのだと考えられます。

1756年リーデル社創業

リーデル社のガラス製造の歴史は、ボヘミア地方北部の森の中に最初のガラス工房が建てられた265年前に端を発します。
工房を建てたのは、ヨハン・クリストフの孫、ヨハン・レオポルド(3代目)で、現代のリーデル家まで続く起業家の血筋は彼から始まります。
若きヨハン・レオポルドは、何もないところから努力を重ね、リーデル家の工房をいとこのガラス工房と肩を並べるほどにまで発展させましたが、いくらすぐれたガラス職人だったとは言え、ガラス市場が大幅に落ち込む時代を迎え、リーデル家はやむなくガラス製造から撤退することになりました。まもなく資金援助や景気の上向きという好条件を得て、ガラス炉にふたたび火が入る日がやってきました。
リーデル家3代目のヨハン・レオポルドは1756年には負債も完済し、事業も軌道に乗り、地元の伯爵から借地契約で個人事業を営む許可を得ます。
そして7年戦争勃発と同年、アントニヴァルドのゼンクナーで、リーデルのガラス製品第1号が誕生します。

あらたなガラス工房が1775年に完成し、生産も盛んに行われていた頃、あらたな危機がリーデル家のもとに忍び寄ります――バイエルン継承戦争で、プロイセン人の襲撃が国境付近まで接近し、イゼラ山脈に建つ他のガラス工房が焼き討ちに遭ったのです。ヨハン・レオポルドは、リーデル一族持ち前の気概を発揮し、自らの命や事業を最優先することなく、プロイセンに占領された地域の家族をかくまいました。

ヨハン・レオポルドの死後、長男のアントン・レオポルド・リーデル(4代目)がリーデル家の本家を相続しました。アントン・レオポルドは、父親譲りの商才をふるい、ノイヴィーゼ・ガラス工房を買収しました。ナポレオン戦争によって繁栄の時代は中断され、海外との取引が不可能になり、売り上げは落ち込み、ついには貨幣価値の下落が起こりました。
4代目のアントン・レオポルドは、さまざまな製造法、あらたな販売方式を試すことにしました。そこで彼が取り組んだのがガラスの強化で、その担当者に2人の息子を任命しましたが、そのひとりがフランツ・クサファー・アントン(5代目)で、彼はガラス彫刻の才能があり、天分に恵まれたガラス芸術家となります。

工房から工場へ ガラス帝国の隆盛

アントン・レオポルドが1821年に亡くなり、息子のフランツ・クサファー・アントンの代のリーデル家は隆盛に向かいます――経済は復興し、ロマンティックに理想を描いた、当時流行のビーダーマイヤー様式がガラス製品とみごとに調和し、あらたなブームを巻き起こしました。

フランツ・クサファー・アントンはリーデル家の当主としての商才を発揮すると同時に、豊かな芸術性にも恵まれた、まさに天から二物を与えられた人物でした。フランツ・クサファー・アントンの時代は、森の中に建つガラス工房だったリーデルが、今日まで続く、近代化された工業生産施設へと移行する転換期にあたると見てもいいでしょう。意匠を凝らしたビーズ、ボタン、ジュエリー、いわゆる“小間物”の需要が広まるにつれ、まもなくフル稼働での生産が行われるようになりました。質の高いガラス、ウラニウムで発色させる黄色や緑など、これまでになかった興味深い色のガラスを世に送り出し、フランツ・クサファー・アントンは、ガラス業界の最先端の座を確固たるものにします。

フランツ・クサファー・アントンによってリーデル社の事業は安定した繁栄の時代を迎えたものの、子どもは娘のアンナ・マリアひとりで男子の跡取りがおらず、家長制が当然とされてきたこの時代に女性が事業を引き継ぐことは考えられませんでした。そこで1830年、フランツ・クサファー・アントンは、14歳のおい、ヨーゼフを一族のビジネスに迎えます。
6代目となったヨーゼフは社内でも着々と頭角を現し、ガラス製品の工程を完全に頭にたたき込むため、どんな仕事も進んで引き受けました。
フランツ・クサファー・アントンが亡くなる4年前、リーデル家の家督は、フランク・クサファーの娘アンナ・マリアと結婚した若きヨーゼフ・リーデルが相続します。ヨーゼフ・リーデルは向上心が非常に高く、事業家としても成功し、1849年には他のガラス会社を買収して事業をさらに拡大しました。
ヨーゼフ・リーデルはイゼラ山脈でガラス界の帝王と呼ばれるようになり、すべてが順調に進んでいた矢先の1855年、アンナ・マリアが4人の子どもを残して36歳の若さで亡くなります。悲しみに打ちひしがれたヨーゼフは、これ以上アントニヴァルドに住み続けるのは耐えられないと、拠点をウンター・ポーラウンに移し、その後は仕事に没頭します。1859はヨハンナ・ニューウィンガーと結婚し、1866年には、リーデル家発祥の地、アントニヴァルドのゼンクナーにあった工房の代わりとなる、新工房の建設を、ヴィルへルムスヘーエの工房の隣で着手します。

ガラス産業の帝王を阻むものは何もありません。事業はますます発展し、4人の息子たち、オットー、ヒューゴー、ヴィルヘルム、ヨーゼフ(末息子は2度目の結婚で生まれる)も、この大規模な事業の一員として働くようになりますが、ヨーゼフ・シニアは衰える兆しを見せません。ヨーゼフ・シニアは石炭を燃料とするガス炉を導入し、森の木を薪として使う時代が終わりました。ガラス界の帝王は時代を数歩先読みする人物でした。ヨーゼフ・シニアは亡くなる1894年まで働き続け、世界有数のガラス帝国を息子のヨーゼフ・ジュニアにゆだねました。

7代目のヨーゼフ・ジュニアは、あきらかに他者が太刀打ちできない才覚の持ち主でした。彼は亡父と張り合おうとはせずに独自の道を切り開くことを決意し、父とは別の分野の事業に心血を注ぎ、一代でその座をしっかりと確立させました。ヨーゼフ・ジュニアのガラスへの愛情、新技術への献身的な情熱は、ガラス界の帝王であった父から受け継ぎました。ヨーゼフ・ジュニアは、直径1~4ミリのビーズ製作に欠かせない引き伸ばし式ロッドとチューブ製作を機械化する機械の製造に成功し、ガラス製造の歴史に大きな転換期をもたらしました。

二つの大戦の戦火の中で

8代目のワルター・リーデルは、ヨーロッパ有数の経営者から一転、ソ連で10年間抑留生活を送り、まさに山あり、谷ありの人生を送りました。
第一次世界大戦時は砲兵としてイタリアに赴いたワルターは、帰国後父の会社に就職し、ヨーゼフ・ジュニアが亡くなった1924年にリーデル社の実権を握ります。1920 年代は世界中の景気が低迷し、1929年のニューヨーク株式市場大暴落を経てドイツ国内に保護貿易主義が広まり、輸出は縮小、失業率は増大しました。こうした時代の中、ワルターは大いにその存在感を発揮し、数多くの業績を残しました。

開戦直後、ワルターはロープ・ウールの生産用として、精密な回転式ファイバーグラスの製造を開始します。実業家のヴェルナー・シュラーもプラチナを使わない回転式ファイバーグラスの新しい製造法を考案し、こちらが特許を取得しました。この素材が軍事面で応用できることに気付いた航空省は、リーデル社とシュラーの両方に何らかの圧力をかけ、両社の共同事業としてファイバーグラスの製造を開始させます。航空省はその後、76cmのガラス製ブラウン管の製造の可否をワルターに打診します。
当時のブラウン管は最大でも38 cmであり、これ以上の大きさのブラウン管が作れるとは誰も思っていませんでした。打診を受けてから3週間後、ワルターは76 cmのブラウン管を持ってベルリンを訪れ、軍部は彼のすぐれた技術力に驚嘆しましたが、皮肉なことに、ワルターはその技術力のせいで10年間苦しい生活を余儀なくされるのです。

リーデル社の国営化とシベリアへの強制連行

1945年5月、ソ連軍が北から、南からはチェコのパルチザンがポーラオンに侵攻し、リーデル社は終焉を迎えます。
チェコスロヴァキア新政府から、ワルター・リーデルは、国営となった企業の継続を求める命令書を受け取り、リーデル家の全財産は国家に没収され、8代続いた200年の実績が一夜にして崩壊したのです。アメリカが広島に原子爆弾を投下してから16日後、ワルター・リーデルは収監され、シベリア東部の捕虜収容所に“強制労働者”として送致され、当初はソ連のガラス工場再建を支援します。
5年間の捕虜期間が満了し、ワルターは帰国を希望しましたが、ソ連には別の思惑がありました。ワルターは駐モスクワのオーストリア大使館に抗告しましたが、結果としてソ連での活動を大使館に密告したスパイとして逮捕されてしまい、25年の禁固刑を申し渡されます。
スターリンの死後、ドイツ首相アデナウアーが戦犯の釈放に尽力したおかげで、1955年、ワルターのオーストリア帰国が実現しました。

列車から飛び降りて祖国へ

ワルターがロシアに抑留されていた頃、9代目にあたる息子のクラウスも自由を得るため列車から飛び降り、その後紆余曲折を経て祖国オーストリアに帰国し、リーデル一族の事業はようやく好転します。
クラウスは、捕虜仲間が住む村から17キロほど離れた場所で列車から飛び降りました。雪の中、彼は綿製の薄い囚人服一枚で村へと向かい、村に着いたクラウスは温かな歓迎を受けます。地元のガラス職人の頭領を務めるスワロフスキーは、リーデル家の息子が町にいると聞き、会いたいと言ってきました。
クラウスの曾祖父、ヨーゼフからガラス工芸技術を教わったスワロフスキーは、クラウスを自分の息子のように可愛がり、大学にまで行かせて化学を学ばせました。クラウス・リーデルは戦時中に駐留していたイタリアで出会ったアディアと結婚し、1951年から56年にかけて各地でさまざまな職を体験した後、オーストリアのインスブルックに落ち着きました。

リーデル社の復活

ちょうどその頃、スワロフスキー家から、オーストリア・インスブルック近郊にある小さな町、クフシュタインでガラス製品の事業を引き継がないかと持ちかけられましたが、リーデルは、ステムウェアは自分たちの得意分野ではないからと乗り気ではありませんでした。クラウスには工房を買うだけの資産がありませんでしたが、スワロフスキーからの資金援助を受け、破産したティローラー・グラスヒュッテの社屋を買い取りました。その場所が、現在のリーデルの工場所在地です。

企業再建のための準備期間を経て、ワルターは息子とともに新規事業に乗り出しましたが、クラウスはステムウェアの製造に熱を入れ、ワルターは生産量の高い分野を優先し、どちらをビジネスの主眼に置くかが大問題でした。親子の意見の相違によって、必然的に軋轢が生じました。リーデル家では、こうした2世代の見解の違いによる衝突は非常に健全なことと考え、“火はどんどん熾せ、決して灰を残すな”という家訓も生まれています。

機能的ワイングラスの父 クラウス・リーデル

リーデルのガラス工芸はあらたな方向性を生み出しました――装飾を一切廃した、繊細で精巧なワイングラスです。
1961年発行のカタログで、クラウス・リーデルは、ワイン独自の持ち味を高めるためのグラス作りという自らの理念を初めて打ち出しました。機能性よりも見た目の美しさを重視したステムウェアが主流だった当時、リーデル社の理念は他社と大きく一線を画するものでした。
1973年に発表された手吹きのステムウェア、ソムリエ・シリーズはワイン界に新風を巻き起こし、その後のワイングラスの世界は大きく変わりました。グラスの形状が中に注いだワインに与える影響を研究した結果、クラウスは、現在ワイン用として使われているグラスのほとんどが小さすぎて、ワインを正当に評価できないことに気付きました。ソムリエ・シリーズは世界中で数々の賞を受けました。

世界中のワイン愛好家に

10 代目のゲオルグ・リーデルはクラウスの理念をさらに発展させ、ぶどう品種別グラスを発表したほか、リーデルのグラスを手頃な価格で世界中のワイン愛好家に提供できるよう、機械生産による精巧なワイングラス、ヴィノム・シリーズを世に送り出しました。
近年におけるリーデル社の転換期と言えるのがアメリカへの進出で、ロバート・モンダヴィとの出会いを通じ、ゲオルグ・リーデルは、アメリカ市場にいっそう力を入れて取り組むことになります。

クラウスはデザイナーとしての才能にすぐれ、1968年のオリンピックではリーデル社がデザインに協賛し、オリンピックを記念する花瓶を製作するいっぽう、息子のゲオルグは冷静な分析者の視点でビジネスを見守り、まもなく企業構造の弱点に着目します。
ゲオルグがビジネス戦略に懸命に取り組むにつれ、クラウスは次第に経営から手を引くようになり、1987年、ゲオルグが経営権を引き継ぎます。

それぞれのワインが持つ個性を引き立てるグラスの開発をライフワークとするゲオルグは世界中を回り、各分野の専門家とワークショップを結成し、ティント・レゼルヴァからシングルモルトまで、あらゆる飲料に適したグラスを開発しました。ワインの世界に可能性がある限り、リーデルはこれからも新しいグラスを作り続けていくことでしょう。

リーデル社の躍進

リーデル家の10代目と11代目にあたるゲオルグとマキシミリアンの時代を迎え、リーデル一族の歴史はさらなる展開を続けています。
11代目のマキシミリアンはアメリカのリーデル社を統括しており、またワインに合ったグラスで、しかもステムのないデザインのリーデル“O”シリーズを発表して、ワイングラスの世界ではすでに有名な存在です。
こうしたグラスウェアに対する気取りのない姿勢が大成功をおさめ、業界にはまだまだ新しい認識や斬新な技術が投入できる余地が常にあることが立証されました。

驚くほど戦略的な判断力の持ち主であるゲオルグは、2004年、ドイツのガラス会社F.X. Nachtmannの合併を成功させました。
ゲオルグは、機械製造のグラスという分野には計り知れないほどの成功の可能性があると判断し、企業合併という壮大な決断を下したのです。精巧な手吹きグラスの市場はまだまだ健在でしょうが、機械製造のグラスの分野は競争が熾烈であり、業界トップの座を守り続けることが何より重要です。リーデル社はリーデル、シュピーゲラウ、ナハトマンの3ブランドに支えられ、今後も市場で安定した地位を保ち続けることでしょう。
先達たちのすばらしい業績に恥じぬよう、ゲオルグは迷いのない決断力、最先端技術、事業への献身的な取り組み、先進的な考えを貫き、リーデル社の繁栄を次の世代に受け継ぐよう努力を重ねています。世界中の市場にリーデル・ブランドを浸透させる出発点が整った今、リーデル社は、次なる発展に向けての準備を進めています……

フリードリヒ・シラーは、ガラス商人ヨハン・クリストフ・リーデルの殺害を語った伝説をもとに、バラード『イビュコスの鶴』を書いたと言われる。(銅版画、1873年)

リーデル社、最初の工場(1760年)

プロイセン軍の兵士たちが窓ガラスを銃撃。“復興資金”を使って、ヨハン・レオポルド・リーデルがより大きなガラスに変える。

ポーラオンのビーズ工場で働いていた誇らしげなリーデルの従業員の集合写真。(1900年頃)

当時は異国趣味が流行だった。ペアの細長いカップ。極楽鳥が鮮やかなエナメルで描かれ、ブルーの飾り鋲がついている。(1881年)

ロシアの捕虜収容所。強制労働に駆りだされた技術者ワルター・リーデルは、10年近くにわたって、ロシアのガラス産業に自分の知識を提供しなくてはならなかった。

北ボヘミアで8代にわたる歴史を持ったリーデル家の全財産を、チェコスロヴァキア共和国大統領が勅令によって没収した。<ヨーゼフ・リーデル・ポーラオン>という社名は抹消された。

左から、クラウス・リーデル、ワルター・リーデル、ゲオルグ・リーデル

9代目当主クラウス・ヨーゼフ・リーデル

<ブラッセル>シリーズは、クラウス・リーデルがオーストリアのクフシュタイン工場を再開した後に初めてデザインしたもの。(1957年)。ボウルとステムがひとつのガラスから作られている。

以前の所有者のもとで経営難に陥ったため、クラウス・リーデルが<ティローラー・グラスヒュッテ>の経営を引き継いだ。これがクフシュタインにある今日のリーデル・ハンドメイド工場である。

クラウス・リーデルの信条
ワイングラスをデザインするときは、グラスが香りをどんな風に伝えるかを知ることが必要不可欠である。

完璧の域へ
<ソムリエ・シリーズ>はゲオルグ・リーデルによってさらに発展をとげ、ブドウ品種別のグラスが生み出された。

10代目と11代目のリーデル
ゲオルグ・リーデル(1949年生まれ)、その息子マキシミリアン(1977年生まれ)、娘レティツィア(1974年生まれ)

歴代当主

ヨハン・クリストフ・リーデル
(初代)

Riedel’s first glass factory
(1760)

リーデル家で瀟洒なガラス製品の売買を最初に始めたのは、1678年生まれのヨハン・クリストフ・リーデルです。彼はガラスの取引のためヨーロッパ中を回り、スペインやポルトガルまで足を伸ばしました。長くて辛い、危険な旅を続けたガラス取引の報酬として、ヨハン・クリストフはしかるべき額の利益を手に入れました。

ヨハン・カール・リーデル
(2代目)

2代目のヨハン・カール・リーデル (1701-1781) はめっきとガラス切りの職人でした。彼はガラス器を研磨する工房を作り、そこで作業をしました。

ヨハン・レオポルド・リーデル
(3代目)

3代目のヨハン・レオポルド・リーデル(1726-1800)は、ボヘミアとシレジアの覇権をめぐり、オーストリアとプロイセンが闘った7年戦争(1756-1763)で富を得ました。

戦争中に破壊された周辺の町や村で、家の修理や改築に窓ガラスの需要が生じ、ヨハンは1756年5月17日、初のガラス工場を設立する機会に恵まれました。

ステンドグラスの代わりに窓ガラスを使うという技術を考案したヨハン・レオポルドは、事業で大成功を収めました。

アントン・レオポルド・リーデル
(4代目)

4代目のアントン・レオポルド・リーデル (1761-1821)は思い切った事業改革を行い、父の代で行っていた窓ガラス製造事業からシャンデリアの部品、美しい装飾を施したガラス器といった、正真正銘の贅沢品造りに乗り出します。

フランツ・クサファー・アントン・リーデル
(5代目)

5代目のフランツ・クサファー・アントン・リーデル (1786-1844)は、若い頃からすぐれたガラス彫刻師として有名でした。彼は自作にサインを彫り込み、その作品は今でもオークションに出品されています。

フランツはその後有力な起業家となり、彼の作品に対するヨーロッパでの需要を一手に引き受けました。

フランツはウラニウムを使い、従来には考えられなかった蛍光色や黄色、緑色のガラスによって成功し、彼の事業はこの技術によって大いに発展しました。このガラスは、フランツの娘の名にちなんで“アンナゲルブ(アンナの黄色)”、“アンナグリュン(アンナの緑色)”として、文学作品の中にも登場します。

フランツは当時14歳だった甥のヨーゼフ・リーデル・シニアを呼び寄せ、自社で働かせます。

ヨーゼフ・リーデル・シニア
(6代目)

ヨーゼフ・リーデル・シニアは非常に才能あふれる職人に成長し、おじの助手を務め、ついには事業を引き継ぐことになります。
6代目のヨーゼフ・リーデル・シニア (1816-1894) はすばらしい才能の持ち主であり、産業革命の時代に生まれた彼は、自らの才能をさらに開花させていきます。

ボヘミアの森の木々を薪として熱した炉でガラスを溶かすというロマンチックな製造現場から離れ、彼はポーラウンに拠点を移します。この地に鉄道が開通した1877年、薪よりも安価で効率の良い石炭の輸入が可能になりました。鉄道の出現により、大量生産した製品が短期間で安全にお客様の手に届くようにもなりました。

ヨーゼフ・リーデルは当時1,200名の職人を雇っていました。彼の時代は、もっぱら彩色したガラス製のビーズやブランク(最終加工されていないガラス)を製造し、小規模な家族経営の工房でカットや研磨が行われました。

できあがった製品は商社を通じて販売されました。リーデル製品は遠くはインドや南アメリカでも販売されました。商社を利用した販売方式を採用していた19世紀、商社が自社の名前でリーデル製品を売るため、リーデルの名がブランドとして成立せず、一族にとっては不利な状況にありました。

ヨーゼフ・リーデル・ジュニア
(7代目)

7代目のヨーゼフ・リーデル・ジュニア (1862-1924) は優秀な化学者であり、機械技術にも長け、600色のガラスを生み出すという偉業を成し遂げました。

洗練された色が多数取り揃えられているというメリットは他社を圧倒し、リーデル家の事業はますます拡大し、第一次世界大戦による景気不和の影響も受けませんでした。

新規機械を開発したヨーゼフ・リーデル・ジュニアは、ガラスビーズの大量生産を得意とし、こうしたビーズは宝石として、また衣類の装飾品として使われました。カッティング部門ではブランクを研磨し、金や銀、当時の流行色で彩色していました。1890年からは製品にリーデルのロゴ刻印を開始し、途中中断を余儀なくされましたが、1996年よりロゴの刻印を復活しました。

ワルター・リーデル
(8代目)

8代目のワルター・リーデル (1895 – 1974) は2つの大戦を経験しましたが、戦争は彼の人生に大きな打撃を与えました。政情不和の中、ワルターは強制的に国籍を4度変更させられます。ボヘミアは1918年にチェコ共和国に併合され、ワルター・リーデルのようにドイツ語を話すズデーテン地方の人々はチェコ共和国の国民となりました。

1930年頃になるとズデーテン地方とチェコとの政治・経済的紛争が激化し、1938年にナチ政権がチェコスロヴァキアを占領するという事態を招きます。当時チェコのガラス製造は70%をズデーテン地方が独占していました。

この時期のリーデル家は、香水瓶(フラコン)、彩色ガラスによるギフト商品、シャンデリア、シャンデリア部品の大手メーカーとして躍進していました。ワルター・リーデルは精巧な鋳型技術を開発し、機械に強い父の才能を受け継ぎました。シャンデリア製品はカッティングの後金属の鋳型に流し込み、研磨を終えてから配線処理をします。

開戦とともにナチ政権がガラス産業を制圧し、造り出す製品は瀟洒なものから軍事品へと変わります。ワルター・リーデル、そして工房の一部の職人たちは、空域監視用レーダー部品である、ブラウン管の製造にたずさわりました。ワルターはブラウン管の直径を38 cmから76 cmまで拡大し、この時期には画期的な技術革新を実現しました。

しかし、この発明が彼の運命を決定づけたのです。ソ連軍がベルリンを陥落した1945年、壊れたブラウン管を発見した彼らは、製作した科学者をやっきになって探しました。スターリン政権のこの時代、ソ連はワルター・リーデルに5年間の労働契約書へサインするよう強硬に求め、捕虜としてソ連に10年間抑留したのです。

第2次世界大戦が終結した1945年、リーデル家の資産と事業は没収され、チェコが国営化しました。リーデル一族は帰るべき故郷を失ったのです。

1955年、ワルター・リーデルはオーストリアに帰国しました。リーデル家との縁がとても深いスワロフスキー家が受け入れ先となり、1956年、ワルター・リーデルは息子のクラウス・J・リーデルと手吹きガラスを専門とするガラス工房を再開し、オーストリアのクーフシュタインで新たなスタートを切ります。

クラウス・ヨーゼフ・リーデル
(9代目)

9代目のクラウス・ヨーゼフ・リーデル(1925-2004) には、ある構想がありました。
従来の色つきガラスで作るステムウェアのデザインを、装飾を加えずにカットしたシンプルなものに変え、ボウルは薄手でステムの長いワイングラスを作ろうと考えていたのです。
彼の考案したワイングラスはたちまち目の肥えた顧客や美術館から注目を浴びるようになります。多くのデザイン賞を受賞したことが契機となり、リーデル家の新時代が始まりました。なかでも<ソムリエ シリーズ>の『ブルゴーニュ・グラン・クリュ』グラスは、ニューヨーク近代美術館でパーマネント・コレクションに認定され、そのデザイン性も高く評価されています。

自らデザインしたグラスをもとに、クラウス・リーデルは、グラスの形がアルコール飲料に影響を与えるという事実に歴史上初めて気付きます。クラウス・リーデルの業績は、ステムウェアの今後のデザインに大きな影響と変革をもたらしました。クラウスの傑作“ソムリエ”は、ワインの持ち味を活かすために作られた初めてのステムウェアで、30年前にオルヴィエートで発表されました。

ゲオルグ・ヨーゼフ・リーデル
(10代目)

10代目のゲオルグ・ヨーゼフ・リーデル(1949-)は、グローバルなビジョンをもち、リーデルを世界的な成功に導きました。アメリカ市場の重要性をいち早く認識し、1979年には「リーデル・クリスタル・オブ・アメリカ」を子会社として設立しました。1986年には、機械生産による史上初のブドウ品種別ワイングラス、<ヴィノム シリーズ>を世に送り出します。このシリーズにより、リーデルが生んだ機能性ワイングラスの概念がより手頃なものとなり、世界各国で知られるところとなりました。さらに事業強化の目的で、2004年にドイツのガラスメーカー、ナハトマンを合併します。そして、それが後の成長の基盤となりました。現在、リーデルの輸出比率は97%であり、機能性グラスの製造では他を圧倒する世界的リーディングカンパニーとなっています。

ゲオルグ・リーデルは、グラスメーカー、グラスデザイナーとしての長いキャリアの中で、機能的なグラスを数多く製造していますが、それらは、飲み物の楽しみを深めるためにデザインされたものです。ブドウ品種別ワイングラスの製造の背景には、精巧にデザインされたグラス形状が芳香豊かなあらゆる飲み物への感覚を鋭くさせるという、リーデルの強い信念があります。最新シリーズである<リーデル・ワインウイングス>と<SL リーデル・ステムレス・ウイングス>は、従来のワイングラスの形状にまたもや革新をもたらし、デザインも印象的です。

レティツィア・リーデル・ロスリスバーガー
(11代目)

レティツィア・リーデル・ロスリスバーガー(1974年生まれ)
10代目ゲオルグ・リーデルの長女で、11代目マキシミリアン・リーデルの姉。現在はリーデル社の弁護士として、ファミリービジネスをサポートしています。

マキシミリアン・ヨーゼフ・リーデル
(11代目)

11代目のマキシミリアン・ヨーゼフ・リーデル(1977-)は、1997年にリーデル社に参画し、25歳の時に、一族の事業で最も重要な市場であるアメリカにおいてリーデル・クリスタル・オブ・アメリカの最高経営責任者(CEO)となりました。彼は経営の才覚を発揮し、北アメリカをリーデル最大の輸出市場に育て上げました。マキシミリアン・リーデルは、CEOとしての役割に加えて、デカンタおよびグラスのデザイナーとして世界的な知名度を誇ります。2001年には、<リーデル・レストラン シリーズ>を開発し、業務用製品にも注力。同シリーズは、リーデルの成功を支える2本柱のひとつとなるまでに成長しています。さらにクリエイティブな才能を発揮して、2004年にはブドウ品種別にデザインされたステムのないワインタンブラー<リーデル・オー シリーズ>を発表しました。また、初の“宙吹き”のハンドメイド・デカンタ、『コルネット』を発表し、その後も数々の“宙吹き”のデカンタを世に生み出しました。以降、彼が手がけるデザインは、多くのデザイン賞を受賞しています。

マキシミリアン・リーデルは、リーデルのオンラインセールス戦略の立案・展開に尽力し、同事業はリーデルの“ダイレクト・トゥ・コンシューマー”事業で最も重要なセールス・チャネルとなっています。同氏はさらに、他社との交流を積極的に行い、ドイツの高級家電・業務用電気機器メーカー、ミーレ(Miele)などとの事業提携を進めました。加えて社会貢献活動にも非常に意欲的です。がんやエイズへの理解を啓発する団体やナパバレー・ワイン・オークションといった数多くの団体を支援することで、社会貢献を続けています。

ソーシャルメディアの興隆で、消費者とのコミュニケーションは飛躍的に強固になりましたが、同時に消費者は他のさまざまなプラットフォームにアクセスできるようになっています。マキシミリアン・リーデルは早くからこのことに気づき、その機会を利用してきました。リーデルはソーシャルメディアを活用した日常のコミュニケーションや定期的なキャンペーン、さらにマネージング・ディレクターである彼自身からのコメントなどを通して、消費者との直接的なコンタクトの機会を増やしています。

2013年7月1日、マキシミリアンはゲオルグ・リーデルから本社Tiroler Glashütteの経営および全世界の子会社を引き継ぎました。以降、彼は素晴らしい手腕や実績により、厳しい時期もリーデル社をリードすると同時に、サステナビリティや生産・ロジスティクス効率の向上、さらには新型コロナウイルスといった課題にも対処しています。

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